任天堂「ファミリーコンピュータ」発売 (1983年7月15日)

任天堂が「ファミリーコンピューター」(以下ファミコン)を発売すると発表したのは、1983年5 月。すなわちMSX 規格の発表からわずかに前のことだ。当時の人たちは、この小さな発表が後に世界を変えること、そしてMSX 陣営にとって決定的なダメージを与えるものとなることを果たして予期できていたのだろうか。

ファミコンの定価は14,800 円。当時発売されていた他のゲーム専用機よりも大幅に安かったし、当然ながらキーボードが付属するホームコンピューターが勝てるような値段ではない。しかし、ファミコンが「安いから売れた」と考えるのは早計である。ファミコンが成功した要因には、いくつかの計算と、そしていくつかの偶然が重なりあっているのだ。

当時日本で市販されていたゲーム専用機としては、エポック社の「カセットビジョン」や、バンダイの「アルカディア」、そしてアタリの「アタリ2800」などがあった。また、ファミコンと同じ日にあたる7 月15 日にセガの「SG-1000」が発売されたことはよく知られるエピソードである。秋には価格破壊で知られるカシオが「PV-1000」を投入するなど、当時はどのハードウェアが勝利するのかが見えない状態であった。また、ホームコンピュータ市場においても前述のソード「M5」を始め、コモドールの「マックスマシーン」、トミーの「ぴゅう太」、バンダイの「RX-78」など多種多彩である。そこにMSX 陣営が参入することで、市場はますます混迷の色を深めていた。

しかし、1983 年の年末商戦によってその様相が明らかとなる。ファミコンが生産台数50 万台、ゲーム機市場で45%のシェアを獲得して圧倒的な勝利を収めたのだ。しかも、途中でICチップの不具合が発覚して一時生産を中止するというアクシデントが発生したうえでのこの数字である。ホームコンピューター市場ではMSX が優位に立ったものの、台数では数万台程度にとどまったものと思われる。発売当初は実売5 万円程度の機種が、1984 年に入ると早くも値下げが始まるといった状況であった。5 万円と15,000 円では大きな差がつくのもやむを得まい。

MSX 陣営は、MSX はホームコンピューターであり、ゲームはその利用目的のひとつでしかすぎないと考えていた。しかし、実際には多くの顧客にとってゲームができることは充分なものであった。そして、画面を映し出すお茶の間のテレビを奪われてしまった(当時複数台のテレビを持つ家庭はまだ少数であった)。ホームコンピューターとしてはMSX は勝者だと考えることもできるが、いまもなお「MSXはファミコンに敗れた」というイメージが定着している原因であろう。

しかし、1983 年末の時点ではまだMSX は発売してまもなく、逆転のチャンスはまだ残されていたと言える。少なくとも、2 回はそのチャンスがあった。ひとつは、1984 年10 月に発売されたカシオ「PV-7」である。あの価格破壊のカシオがMSX に参入した。スペックを最小限にとどめることで、定価29,800 円を達成したのである。しかも実売では2 万円を切る店舗もあり、価格面ではファミコンと充分勝負ができるものであった。実際、当時30 万台程度で頭打ちだったMSX の市場はPV-7 によって息を吹き返したとされる。

ところが、それ以上の追い風がファミコン陣営の背中を押す。ハドソン、そしてナムコがサードパーティーとして参入したのである。「ロードランナー」や「ゼビウス」が自宅で遊べることの衝撃は大きく、ファミコンとMSX の差はさらに広がることになる。1985 年にはMSX2 規格が策定され、ゲームにとって必要な画像処理の性能も大きく向上した。しかし、当初発売された本体は10 万円前後の価格帯が中心であり、大幅な低価格を実現した松下電器「FS-A1」が登場したのは翌86年の10 月であった。その間にファミコンにはあのキラータイトル「スーパーマリオブラザーズ」が登場。決定的な差がついてしまった。

ここでひとつの都市伝説について検証してみよう。「ファミコンを親にねだったが、親が買ってきたのはMSX であった」というネタである。事実、twitter などでこのネタを語っているMSX ユーザーは多い。

1983 年は、前述の通りファミコンのIC チップの不具合による生産停止があり、年末商戦においてファミコンは品薄状態となっていた。翌1984 年も、さらに85 年もファミコンは供給不足に陥っていた。そのため、確かにファミコンが売っておらず、代わりにMSX を買ってきた――という親はそれなりにいたものと思われる。中には「子供にパソコンを触れさせたい」という思いであえてMSX を選んだ親もいると思われるが。

ファミコンの成功要因として言われるのが「低価格」「ハードウェアスペックの高さ」「良質なソフト」といった要素である。これらは任天堂の企業努力によってなされた部分が大きいものの、実際には偶然によって左右された部分もある。現在の任天堂と違って、当時の任天堂は「ゲーム&ウオッチ」の成功こそあれ、会社の規模としてはさほど大きくない。それが低価格の本体を薄利多売でさばくというのだから、これは社運をかけたギャンブルだと言うことができる。任天堂はもともと花札やトランプの製造で知られる老舗メーカーだが、この点ではまさに「賭けに勝った」のだ。

MSX に採用されたZ80 とは異なり、ファミコンでは米モステクノロジー社が開発した6502 をもとに、リコーが改良したチップが搭載されている。リコーが、そして6502 が選ばれた理由は至極単純なものだ。ゲーム&ウオッチはシャープが製造していたが、ファミコンもシャープが製造するとなると供給が足らなくなる恐れがあり、別のメーカーを探していたところに、半導体の生産ラインの稼働率が上がらず困っていたリコーが現れる。両社の利害が一致した結果なのだ。また、6502 のカスタマイズについて任天堂が出した条件もとてもシンプルなもので「ドンキーコングが動くこと」というものだった。これをリコーの技術者はやり遂げた。ROM の容量の関係で1 ステージがカットされたものの、見事家庭用のゲーム機で、アーケード版のドンキーコングを再現してみせたのである。

ファミコンはゲームに特化したハードウェア構成でMSX に大きな差をつけたが、ドンキーコングの再現に挑戦したからこそ生まれた仕様であり、これには必然・偶然の両方の要素が入り混じる。もしリコーの技術者が失敗していたら、ファミコンは世に出なかったか、まったく違うハードウェアになっていた可能性があったのだ。

任天堂は家庭用ゲーム機に参入するにあたってさまざまな可能性を模索しており、その一案としてアメリカで発売されている「コレコビジョン」を日本に輸入するというものがあった。実際にコレコビジョンの販売元であるコレコ社と、任天堂の担当者が接触したことを記す資料が存在しており、またコレコビジョンには任天堂がライセンスして移植された「ドンキーコング」が発売されている。

コレコビジョンのスペックはMSX と非常によく似ている。当時はATARI VCS の後継機として発売されたATARI 2800 や、マテル社より発売されたIntellivision(日本ではインテレビジョンとして発売)とともに、ゲーム専用機の市場の一角を担う存在であった。もし任天堂がコレコビジョンを輸入販売していたら、ファミコンは存在しないことになる。ドンキーコングは存在しても、果たしてゼビウスは存在しただろうか?スーパーマリオブラザーズは存在しただろうか?MSX のスペックで
実現できなかったこれらのソフトは、当然コレコビジョンでも実現できなかったに違いない。

ファミコンにとってこれらのタイトルが発売されず、またファミコンのもつ豊かな表現を活かしたソフトが存在しないということになれば、必然的にゲーム専用機とホームコンピューターをめぐる市場の争いは激化していたに違いない。そこには、MSXやセガSG-1000 などが天下をとる展開も充分考えられたのだ。もちろん任天堂の開発力によって、また違うキラータイトルが生み出されていたかもしれないが…

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