MSX誕生秘話と8社から成るMSX陣営の誕生 (1983年2月15日)

●MSX誕生秘話

MSX の誕生エピソードをもっとも物語っているのは「MSX」という名前そのものである。

そもそもMSX は家庭用ビデオデッキの統一規格である「VHS」を参考にしたと言われているが、VHS はVideo Home System という一般的な単語から名付けられたのに対し、MSX についてはそれが何の略であるかについて複数の解
釈が存在する。

一般的にはMS はマイクロソフトのことであり、X は可能性や拡張性を意味する「未知数」という意味のX とされている。しかし、MS についてはもうひとつの説として「松下電器とソニー」の頭文字からとられたのではないか――とも言
われている。2000 年8 月に東京・秋葉原で開催されたイベント「MSX 電遊ランド2000」において基調講演に立った西和彦は、聴衆から松下・ソニー説について質問を受け「そう受け取っても構わない」と述べた。そのため、現在ではMSX の由来について2つの説が併存している状態だと言えよう。

話は1981 年頃にさかのぼる。MSX 規格の構想を最初に練ったのは、西和彦と松下電器の前田一泰であるとされる。当初は二人のイニシャルをとって「MNX」というコードネームで呼ばれていたという。

しかし、この計画はすぐに実現するものではなかった。当時の松下電器はパソコン市場への参入に消極的であったし、その市場にはすでに関連会社の松下通信が「JR-100」で参入していた。かつて大型コンピュータで失敗し撤退の経験をもつ松下電器にとって、パソコンは一種の鬼門であった。パソコンが本来の意味の「家電」となるまで、あえて市場に参入する意味はなかったのである。

しかし、その流れを変える出来事が1982 年11 月に訪れる。きっかけは、販売会社の山形ナショナルから松下電器・山下社長に送られたレポートであった。当時のパソコン市場はNEC がシェアトップを握っていた。山形ナショナルでもパソコンを
取り扱いたいという意志があったが、そうなると必然的にNEC のパソコンを仕入れざるを得ない。しかし、当時のNEC は冷蔵庫などの白物家電にも参入しており、松下電器にとっては競合となる。しかも、NEC の家電とセットでなければパソコンの仕入れはできないという条件を提示されていた。このような条件を打破するには、松下電器自らがパソコンに参入するべきだ――とレポートには記されていた。山下社長はこのレポートをきっかけにパソコン市場への参入にゴーサインを出す。もちろん開発担当は前田だ。彼にとっては、もともとの構想であるホームコンピューターを実現させる絶好の機会であった。

1982 年の夏頃、西和彦はスペクトラビデオ・インターナショナルという会社と接触していた。MSX 発表の記者会見に参加していたアメリカ企業とは、実はこのスペクトラビデオ社である。

スペクトラビデオ社は1981 年に設立された家庭用ゲーム機のソフトウェアメーカーである。当初はアタリVCS 向けに、そして1982 年からはこの年に発売されたコレコビジョンというハードウェア向けにゲームを供給していた。スペクトラビデオ社は自社でもハードウェアを製造することを計画、そこで目をつけたのがホームコンピューターであった。アスキーはスペクトラビデオと協力して、ホームコンピューターの設計とマイクロソフトBASIC の開発・供給を行った。そして1983 年1 月、ラスベガスで開催されたCES8にて「SV-318」が発表されたのである。SV-318 は299$という低価格で発売された。

コストダウンを優先するために、そのスペックには、すでに他のハードウェアで採用され実績をあげているチップが採用された。多く採用されているということはそれだけコストダウンの効果が高いということだ。CPU にはザイログ社のZ80。VDP(画像処理プロセッサ)にはテキサス・インスツルメンツ社のTMS9918A。これらはコレコビジョンと同じものであり、スペクトラビデオ社にとってもソフトウェアの開発がしやすいものであった。音源にはGI 社のAY-3-8910(いわゆるPSGと呼ばれるもの)、そしてBASIC にはマイクロソフトBASIC が採用された。以上の4 点がSV-318 の構成のメインとなるものである。そして、同じ4 点セットを採用したホームコンピューターは他にMSX しか存在しない。

松下電器には、1982 年の暮れ頃にすでにSV-318 のプロトタイプが持ち込まれていたとされる。そして、SV-318 はそのままMSX のプロトタイプともなった。

●ソニーを口説き落とす

年が明けて1983 年、西和彦と前田一泰は本格的に統一規格の策定へと動き出す。1 月にはソニーとコンタクト(※)をとり、当時のMIPS 事業部長・出井伸之氏に連絡。前田は銀座のソニービルに赴き、出井氏とソニー創業者・盛田昭夫氏の次男にあたる昌夫氏と会談をもった。出井氏はその後南青山にあるアスキーへ移動し、MSX のプロトタイプ機(おそらくSV-318 をベースとしたものであろう)を見たという。その後、ソニー・大賀社長と松下・城阪副社長による電話会談にて、正式にソニーが統一規格に参加することが決定した。

このとき、西和彦がソニーを口説く際に「MSX のMS とは松下とソニーの頭文字をとったものだ」と言ったとされる。これが「MSX=松下・ソニー・X」説の正体である。実際の真偽は不明だが、少なくともVHS とベータマックスで熾烈な規格争いをしていた両社がホームコンピューターというカテゴリで手を組んだことは歴史的な事実である。

(※ このとき西和彦と一緒に渋谷で飲んでいたのが、後に弥生・ライブドアの社長になったことで知られる平松庚三氏である。)

その後、MSX 陣営にはNEC が加わった。日本のパソコン市場でトップシェアを誇るNECを陣営に引き入れることは、統一規格を成立させるために欠かせない要素だった。逆にNECにとってはとくに統一規格に参加するメリットはなかった。ホームコンピューター市場においても「PC-6001」をすでに投入しており、あえてそれを捨てる必要はまったくなかった。とはいえ、松下電器とソニーが協同して動いているという事実は脅威であり、NEC も参加を決める。その後も参加メーカーは増え続け、1983 年2月15 日には松下・ソニー・NEC のほか、日本楽器製造(ヤマハ)・パイオニア・日立・富士通・三菱電機を加えた8 社による会合が開かれたという記録が残っている。

MSX規格はSV-318 とハードウェアの構成がほぼ一致しているが、大きな違いをあげるならば「日本語を始めとする各言語への対応」と「拡張性の向上」の2 点がある。前者はもともと英語圏で発売されたSV-318のローカライズであり、文字コードにはカタカナ・ひらがななどが加えられた。これらは他国に輸出する際にはそれぞれその国の文字と入れ替えることを想定している。後者は主にスロットの仕様である。これにはとくにNEC の意見が強く反映されたと言われている。統一規格となるMSX にとって、各メーカーごとの個性を発揮するには、この拡張性がもっとも大切なキーになる。それゆえに、カートリッジスロットに差し込むだけで簡単にハードウェアを拡張できる仕様が誕生した。この便利な仕様は、後に「MSX は1980 年代の時点ですでにプラグ&プレイを実現していた」というジョークとして語り継がれることになる。

さて、MSX=MicroSoft・X と言われるようになった理由のひとつとして、日本の通産省からMSX 陣営に対してクレームが入ったことがあげられる。日本のメーカーが結集して策定している規格に、よりによって外国製のBASIC を採用しているとはどういうことか――というお叱りであった。これに対してMSX 陣営は、この規格はあくまでもマイクロソフト社が提唱したものであり、我々はその提案に賛同しているにすぎないと弁解したという。実際にはMSX 規格は日本のアスキーによって主導されており、マイクロソフトはアスキーのパートナー的な存在(かつBASIC の供給元)だったのだが、この立て付けによってMSX とはマイクロソフトの規格というイメージが出来上がったわけだ。

先ほどあげたジョークには、マイクロソフトがMSXですでに実現していたことが、Windows では実現できていないのはどういうことか――という皮肉が込められているが、実際にはマイクロソフトはMSX 規格に大きくはコミットしていなかったというのが事実である。

MSX誕生秘話と8社から成るMSX陣営の誕生 (1983年2月15日)」への1件のフィードバック

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です