アスキーとマイクロソフトが提携解消 (1986年2月)

MSXをともに推進してきたパートナーであったアスキーとマイクロソフトが提携を解消した。これにより、MSXはアスキーが単独で推進していくことになる。

背景には、半導体事業を推進する西和彦氏と、反対するビル・ゲイツ氏との路線対立があった。MS-DOSを通じてインテルとの関係を深めるマイクロソフトにとって、半導体事業は競合となり得るものであった。

ヤマハや東芝と協力してMSXに使用する半導体開発を行っていたアスキーだが、MSXによって自らの首を絞める形となる。

 

パーソナルコンピューター用ソフト開発の大手、アスキー(本社東京)の郡司明郎社長と西和彦副社長は日、東京・大手町の経団連会館で会見し、提携関係にある米マイクロソフト(本社シアトル、会長ビル・ゲーツ氏)との間で提携解消で合意、現在解消の時期、共同で開発したソフトウエア商品の権利問題などについて協議していると発表した。

両氏によると、交渉での焦点は日本製十六ビットパソコンの基本ソフト(OS)である日本語MS―DOSの取り扱いや家庭用低価格パソコンの標準規格「MSX」を今後どちら側で販売していくか。いまのところ結論は出ていないが、マイクロソフト側が日本語MS―DOSを、アスキー側がMSXをそれぞれ所有することで決着しそうだ。

【出典】日本経済新聞 1986年2月6日付

 

1985(昭和60)年の秋から株式の公開を真剣に検討しはじめたマイクロソフトは、事業体制整理の一環として、日本市場への取り組みを見直しはじめた。

重要な契約は結んでいても、マイクロソフトとアスキーには資本関係はなかった。ゲイツは西にマイクロソフトの副社長というポジションを提供していたが、給料は支払っていなかった。「資本関係のない2つの企業から給料を受け取っていては、双方の利益が衝突したときに割り切れないだろう」との認識を、彼らは共有していた。

ゲイツと西のあいだには、もっとも野心的なビジョンを共有できるかけがえのないパートナーとしての信頼があった。だがパーソナルコンピュータ産業がすさまじい勢いで発展していく中で、業態をつぎつぎと拡大しながらかけ上ってきた西は、マイクロソフトとの提携を大成功させたあとも、変わり続けることをやめようとしなかった。「これまでROMやフロッピーディスクに収めていたソフトウェアを、シリコンに焼き付けた形でも提供していきたい」として、西は半導体事業に意欲を燃やした。一方ゲイツは、業態をあまりに急激に変化させることをためらった。

新しいビジネスチャンスを貪欲につかみにかかる過程で、西はいくつかの問題を積み残しもした。

強烈な個性を備え、じつによく似通った2人が手を結んで大きな成果を上げ続けるその一方で、両者のあいだには歪みもまた蓄積されていった。マイクロソフトの意向に100パーセント沿いうる子会社を日本にも作るべきだとする社内の意見に対して、西への共感と友情はゲイツの決断をためらわせ続けた。だが最終的には、1986(昭和61)年3月いっぱいの契約切れを機に、マイクロソフトはアスキーとの独占代理店契約の解消に踏み切った。

同年2月17日、マイクロソフトは日本法人のマイクロソフト株式会社を設立した。

【出典】西和彦とビル・ゲイツの別れ – パソコン創世記 (atmarkit.co.jp)

 

※月刊アスキー1986年3月号に掲載された読者へのお知らせ。

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