西和彦氏、ビル・ゲイツ氏から提携解消の通告を受ける (1986年1月2日)

「アスキーを買収してマイクロソフトの子会社にしたい。それがだめなら、ケイ(=西)、君が僕の会社に来てほしい」

85年暮れ、ビル・ゲイツは友人である西和彦にシアトル郊外の本社でこう相談を持ちかけた。マイクロソフトは株式公開の準備を始めたところで、準備中の上場目論見書にも「日本に100%子会社を作る」と明記していた。

アスキーがマイクロソフトの子会社となれば、ソフトウェアの開発とは直接関係のない出版事業や半導体事業は切り離しの対象となる。「仲間や自分が作り上げてきたものを捨て、米国企業のセールスマンになるなんて、とても考えられない」。西の気持ちは動揺した。

86年1月2日。この日は西にとって生涯忘れられぬ日となった。西がアスキーに対するマイクロソフトの資本参加を断ると、ゲイツは「ユー・アー・クレージー」と声を上げた。

機嫌を損ねたゲイツはマイクロソフト本社における副社長としての西の地位や日本におけるアスキーの代理店契約も一方的に解くと言ってきた。失意のどん底に落とされた西はシアトルにある家の家財道具も残したまま帰国した。

【出典】『パソコン革命の旗手たち』より抜粋

 

後に記された西和彦氏の『反省記』によると、ビル・ゲイツ氏が激怒したのは85年暮れのことであり、86年1月2日には執務室に呼ばれ一方的に決定事項を伝えられたのだという。時間軸の微妙な食い違いはあるものの、内容はおおむね一致している。

西氏とビル・ゲイツ氏の路線対立がこの事態を招くことになるが、実際には両者を切り離そうとする動きが水面下で起こっていたと思われる。西氏はこのことを「マイクロソフトの社内政治によってひねり潰された」と評している。

「社内政治」の一例として、西氏の支出に不透明な点が発見され、それがアスキーの他の役員の反発を買ったとされているが、この支出の中には「MSX100万台キャンペーン」で製作された巨大な恐竜も含まれている。

『マイクロソフト戦記』では、来日したゲイツ氏が恐竜を見て激昂し、西氏を罵倒して帰ってしまったとの記述があるが、西氏はこれを否定している。上記のエピソードとの混同があったのかもしれない。

 

アスキーとマイクロソフトが提携解消 (1986年2月) | MSX40周年_unofficial (msx40th.org)

「MSXフェスティバル」開催。新宿に恐竜出現。(1985年12月) | MSX40周年_unofficial (msx40th.org)

 

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